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完成までに30年を要した学問の要塞、旧閑谷学校

特別史跡閑谷学校は、江戸時代初期、岡山藩藩主の池田光政が建設させた郷学校です。

江戸時代の教育機関としては主に3つあげられます。

・藩学校:藩士の教育が目的。藩が中心都市に設立。

・郷学校:庶民の教育が目的。藩が地方都市に設立。

寺子屋:庶民の教育が目的。寺院が設立。

郷学校は藩学校と寺子屋の間のような位置づけです。

 

郷学校は徳川幕府が各藩に設立を促す号令を受けて建設されたもので、1675年に設けられた閑谷学校は全国的にも最初期のもの。建物を含め敷地がほぼそのまま残されているものは全国にここしかありません。

講堂をはじめとする敷地内の建物やランドスケープの美しさもさることながら、敷地をぐるりと取り囲むなまこ型断面の特徴的な石塀がここにしかない景観を生み出し、多くの建築関係者を惹きつけてきました。

災害や空襲、開発により古い建物が失われてきた日本では、江戸時代の建造物が残っているというだけで貴重ですが、閑谷学校には失われなかったそれなりの理由があります。

 

1つは地理的要因。

池田光政は郷学校の設立に先駆け、藩内各地を巡視しています。周囲を山に囲まれた閑谷の地を見て、この静けさが教育の場としてふさわしいだろうと郷学校の建設を命じます。選ばれた敷地は都心から遠く離れ、世俗の事情とは切り離されることになります。

また地形的にも谷池でありながら河川より少し高さのある微高地に位置し、水害からも免れました。さらに、日常生活や通常の学習を行う場所とこの講堂との間に、自然の起伏をそのまま残し火除山とすることで、火災による消失も被らないよう計画されています。

 

2つ目、経済的要因。

ここが光政の勘所でしょう。閑谷学校設立にあたり、光政は学校に石高を与えて経済的に自立できるようにと差配しました。作人63戸を学校領に移住させ、領内で食糧を賄えるようにしています。学校経営を目的に据えた組織として独立させ、予算削減のために学校を閉鎖せざるを得ないといったことのないように体制を整えたのです。

実情としてそれがどのように機能したかはさておき、明治以降も私塾や私立県立の中学校、高校と教育施設として使われ、国の特別史跡として指定された現在でも論語の講義が開かれるなど、教育の場であり続けています。

 

3つ目は設計。

閑谷学校の建設を請け負ったのは、岡山藩の土木事業などに携わっていた津田永忠。

なんと30年以上もの年月をかけて完成させています。

1667年に仮設の手習所を建てると、教育施設としての運用は開始しつつ造営に着手。瓦焼き職人を領内に移住させるなど万全の体制を敷き、敷地西側に食堂や学房、習字所など日々の生活のための施設を、1673年には講堂を完成させています。

講堂に使用されている備前瓦は硬く長期の使用に耐えるものとされていますが、一方で製造工程での品質管理が難しいそうです。規模を考えると輸送コストの削減よりも、職人を側に置くことによる品質向上を期待したのかもしれません。

その後も敷地をぐるりと取り囲む石塀の建設を続け、こちらは1701年頃の完成とされています。幅およそ1.86m、高さ2.12mほどの塀が総延長765メートルにもわたって張り巡らされている様子は圧巻です。

孔子廟が設置されており、儒学の教場としてつくられたことから、建築の意匠や石塀のつくりも中国風の要素が取り入れられています。

 

実際に敷地内を歩くと、長い時間をかけてひとつの施設をつくり上げていくことによって生まれる豊かさを強く感じることができます。

石塀に使用されている石は丁寧にかたちを整えて貼り合わされており、そこに投じられた手間を想像するだけでも途方もない建造物であることが伝わってきます。また瓦も長い時間をかけてつくられたそうです。厳しい品質管理により、350年もの間、一度も葺き替えることなく使用し続けることができたのでしょう。

当然ながら、木材も現代では手に入らないような、長い時間をかけて育った樹木を製材して使用されています。乾燥にもしっかり時間を取っていると思われます。それによって部材の劣化を抑えることができ、長期にわたって使用し続けられている面もあるでしょう。建物が完成してからの年月が長いほど、歴史的には貴重であり重宝される傾向にありますが、建物が完成するまでの年月も指標に加えてみると面白いかもしれません。

現代の建築は1年でつくって25年後に大規模修繕、50年で壊す、といったライフサイクルが当たり前になっています。多くの事業者にとって、100年後、200年後を想定して建築をつくることは合理的ではないのでしょう。50年使える建築を建て、20~30年後に売却できればそれもありか、といったタイムスパンでは、計画できることが限られてくるのは当然です。池田光政岡山藩、ひいては池田家が永続することを願って閑谷学校を造営し、結果として350年経ったいまでも国の貴重な財産として保護されています。

企業、自治体、国家、いずれも数百年後を見据え数十年かけてなにか1つのプロジェクトに取り組む合理性は失われていると思います。数百年使われ続ける建築は、今後どのようなかたちであり得るのか、またはあり得ないのか。そんなことを考えさせられる名建築です。

 

遠景。手前に広大な前庭がある。

泮池(はんち)。石橋を渡った先が修行界、手前が俗界。

泮池越しに講堂を見る。

校門正面。奥に見えるのは池田光政を祀る閑谷神社。

石塀と漆喰塀。

 

特別史跡閑谷学校|1701年頃

主要用途 史跡(教育複合施設)

設計 津田永忠

建主 岡山藩(藩主:池田光政

所在地 岡山県備前市

学情

JR山陰本線吉永駅からバスで15分。