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【長野県茅野市】古谷誠章設計「茅野市民館」──駅直結の複合文化施設に宿る、市民参加が生んだ建築の力

長野県茅野市のJR茅野駅に直結する複合文化施設「茅野市民館」。古谷誠章/NASCAの設計により、大小ふたつのホール、美術館、図書館が共通ロビーを介して緩やかにつながるこの建築は、100回を超える市民ワークショップから生まれました。駅舎一体型の立地が市民をエンパワーメントする力を持つ、現代公共建築の転換点ともいえる一作です。

 

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茅野市民館とは──駅に直結する複合文化施設

茅野市民館は、JR中央本線・茅野駅に隣接して建つ複合文化施設です。800席の多目的マルチホール、300席の音楽専用コンサートホール、美術館、図書室、そしてそれらをつなぐ共通ロビーで構成されています。設計は古谷誠章/NASCA+茅野市設計事務所協会、施工は清水建設・丸清建設共同企業体他。2005年竣工。

長野県茅野市 茅野市民館の外観全景

茅野市民館の外観全景

設計者の古谷誠章は、初めてこの敷地を訪れたときのことをこう記しています。

中央本線茅野駅に隣接する市民会館の敷地にいて、この駅に直結し、その東西を結ぶ人びとの「交流の駅」となる建築をつくりたいと思った。
──古谷誠章『がらんどう』

茅野市は松本や甲府のような城下町ではなく、もともと市街地の骨格が見えにくい街です。八ヶ岳への登り口として開かれた駅と、その周辺に広がる中心市街地の活性化──それが、この建築に託された都市計画的な命題でした。

茅野市民館、東広場とギャラリーのうねる外壁

東広場とギャラリー外壁

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市民参加が設計を変えた──100回を超えるワークショップのプロセス

プロポーザルに先立つ市民の準備

茅野市民館の計画で際立っているのは、市民参加の徹底ぶりです。

設計者の選定に先立つ2年前から、市民による「茅野の地域文化を創る会」が新市民会館に盛り込む機能について議論を重ねていました。文化や芸術を単に鑑賞するのではなく、自らがつくり出していこうとする理念を練り上げていた市民たちが、プロポーザルによる設計者選定を企てたのです。

行政アドバイザーとして計画に関わった都市デザイナーの倉田直道は、市長から市民会館の建て替えの相談を受けたとき、「これこそが茅野市の中心市街地活性化の鍵を握っている」と直感したと述べています。

基本構想──市民の夢と現実の調停

基本構想のワークショップには、旧市民会館や美術館の利用者を中心に23人の市民が参加しました。各グループの希望をすべて満たそうとすると、事業費から想定できる施設規模の2〜3倍の面積が必要になるという状況からのスタートです。

視察とワークショップを重ねるうちに相互理解が生まれ、最終的な構想は妥協の産物ではなく、創造的に導き出された合意となりました。具体的には──

- 大ホールの規模を800席程度に抑制
- 周辺都市の類似施設と競合しないよう、大ホールを多目的、小ホールを音楽専用とする相互補完的な構成
- 当初は計画になかった図書機能の導入(年齢・時間を通して最も幅広く市民が利用する公共施設が図書館であるという共通理解から)

茅野市民館 共通ロビー 異なる目的を持つ来館者が交差する空間

茅野市民館のロビー空間、異なる機能をつなぐ共通空間

茅野市民館 ロビーからレストランへ至るアクセス

茅野市民館 ロビーからレストランへ至るアクセス

茅野市民館 ロビー内観。中庭へのビュー

ロビーから中庭を見る

設計者選定──「図書館の位置」が決め手に

設計者は指名プロポーザル方式で選定されました。
古谷氏のプロポーザル案は、大小ふたつのホール、美術館、市民ギャラリー、レストランをぐるりと配置し、それぞれの機能に本来付属するホワイエをひとつにまとめて共通ロビーとして中央に配する構成でした。そして駅のブリッジから建物へ向けて大きな斜めの廊下をかけ、その接続点に図書室を配置するという提案が、選定の決め手となりました。

この着想には、現場でのひとつの観察がありました。

初めて現場を見に来たのが秋で、ちょっと寒くなりかけてきた頃でした。その時に、駅のブリッジの上で高校生たちが震えながら電車を待っていて、電車が来たらパッと駆け下りていくという光景を見ました。それで、茅野は寒いところだから、待つ所があったらいいなと思ったんです。
──古谷誠章(藤森照信との対談、『がらんどう』所収)

プロポーザルの審査委員を務めた藤森照信も「今回のプロポーザルで本当に差が付いたのは、図書館ですよ」と評しています。

 

50回+71回のワークショップ──計画から運営まで

注目すべきは、設計者が選定された後のプロセスにもあります。
公共施設では基本計画策定後に設計者を決めるのが一般的ですが、茅野市民館では基本構想の段階で設計者が選定され、市民による「基本計画策定委員会」と協議しながら基本計画をまとめる作業が設計者に与えられた最初の課題となりました。基本計画策定のプロセスでは50回のワークショップが行われています。
古谷氏をはじめとするNASCAのメンバーは、次から次へと出される市民からの意見や要望に対し、直ぐに反応するのではなく、多くの意見を最後まで聞き、すべてを一度消化した上で、プロポーザル案を大きく変更した案を提示しました。変更案は市民の意見を反映していただけでなく、プロポーザル案よりさらにバランスのとれた洗練された案になっていたと、倉田氏は証言しています。
基本設計から実施設計、建設段階においても管理運営計画策定委員会として市民参加が継続され、さらに71回のワークショップが開催されました。合計100回を超えるワークショップと、2年以上の歳月をかけた管理運営計画。茅野の歳時記に合わせた400を超える事業提案を催事カレンダーに落とし込み、子どもや高齢者になりきってインタビューに答えるビデオを制作するなど、完成後の姿を具体的にイメージしながらの議論が重ねられました。

茅野市民館、線路上のブリッジからの外観

駅から市民館へアプローチするブリッジから見た外観

茅野市民館、ロビーから東広場へ抜ける出入り口の風除室

ロビーから東広場へ抜けるエントランスの風除室

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空間の構成──「見せ合う」ための共通ロビー

細かく分けず、ひとつにまとめる

茅野市民館の空間構成で最も特徴的なのは、各機能を取り囲むように配された共通ロビーの存在です。

通常、ホール、美術館、図書室といった機能にはそれぞれ専用のホワイエやエントランスが付属します。しかし古谷氏はこれらをひとつにまとめ、共通のロビーとして建物の中心に据えました。

> 細かく分けたのではそれぞれの専用になってしまってひとつずつが狭くなるし、また互いの来館者同士が触れ合う機会も減ってしまう。
> ──古谷誠章『がらんどう』

コンサートホールへの観客動線や楽屋から舞台への動線が美術館スペースを貫通するよう設計されており、異なった目的を持つ人びとの間に視覚的な交流が誘発されるしくみです。音楽を聴きに来た人の目に絵画が入り、展示を見に来た人の耳にリハーサルの音が聞こえてくる──そうした偶発的な出会いが、この建築では意図的に仕組まれています。

茅野市民館 ロビー方向から見た図書館スペース

ロビー方向から図書館を見る

茅野市民館 ブリッジに配置された図書館

ブリッジに配置された図書館

茅野市民館 図書館スペースから北東方向の山並みを望む

図書館スペースから山々を望む

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なぜ「駅一体型」が力を持ったのか──プランニングの勝利

駅前でも市の機関の周辺でもなく

このような文化複合施設は全国の多くの市町村に存在します。しかし茅野市民館が特異なのは、その立地が「駅前」ですらなく、「駅舎一体型」であるという点です。
多くの公共文化施設は市役所の近くや文化ゾーンに計画されます。駅前に計画されるケースでも、駅舎とは独立した建物として建てられるのが通常です。しかし茅野市民館は駅のブリッジと直接接続し、電車を降りた人がそのまま図書室に立ち寄れる。改札から出る前に文化施設に足を踏み入れることができるのです。
この立地の判断の背景には、もともと古い城下町ではなく市街地の骨格が見えにくいという茅野市固有の都市構造がありました。それまで市民会館が担っていた機能を、駅を結節点として再編成する──まちづくりとしての市民会館の建て替えという位置づけがあったからこそ、この大胆な計画が実現しています。

茅野市民館、東側からの外観

東側から見た外観。図書館のブリッジと、左側にイベントスペース

茅野市民館、西側からの外観

西側から茅野駅へのアプローチ

茅野市民館、駅舎ホームから見た全景

ホームからの全景

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市民協働の建築から考える──プロポーザルが用意した舞台

茅野市民館は、ワークショップを通じて市民とのコミュニケーションを行うプロセスを設計に導入した、日本の現代建築における転換点のひとつに数えてよい建築です。
注目すべきは、このプロセスを用意したのが行政でも設計者でもなく、市民団体であったという事実です。プロポーザルという舞台を企てたのは「茅野の地域文化を創る会」の市民たちであり、そこに言語化しきれていなかった要望──いわば「一般意思」ともいえる案を提示して見せたのが古谷氏の力量でした。
公共建築における市民参加は、いまやどの自治体でも掲げるテーマです。しかし、劇場プロデューサーの伊東正示氏が「茅野市民館ほど市民が積極的に関わった例を他には知らない」と述べているように、ここでの市民参加は形式的なものではありませんでした。初期の段階から市民が中心にいて、専門家と行政が脇を固めるかたちで進められた──その構造そのものが、この建築の質を決定づけています。
市民の参加が建築の質をどう変えるのか。茅野市民館は、その問いに対するひとつの具体的な回答を示しています。

近年、SNS上でこのガラス張りの図書館が、資料を傷めているという投稿に、多くのコメントが付き拡散されました。市民の財産である図書資料を保護する役割と、人びとが立ち寄りたくなる開放的な読書空間という役割。相反する性質は両立可能なのか、そもそも図書館に開放的な空間性が必要なのか、さまざまな意見が交わされました。
これまで試みられたことのない新しいものを提示するのは建築家に求められる職能のひとつです。社会は変わり続けており、その変化に対応するためには既存の形式を踏襲するだけでは限界があるためです。しかしながら、新たな挑戦には想定外のエラーもつきもの。そのエラーを共有知として次のバージョンアップにつなげていくためにも、新しい建築が世に認知されることが必要といえるかもしれません。

 

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見学情報とアクセス

正式名称|茅野市民館
所在地|長野県茅野市塚原一丁目
設計|古谷誠章/NASCA+茅野市設計事務所協会
竣工|2005年
構造|鉄骨鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造、鉄筋コンクリート造)
延床面積|10,806.37m²
主要施設|マルチホール(800席)、コンサートホール(300席)、美術館、図書室、イベントスペース
開館時間・休館日|公式サイトで要確認

アクセス

JR中央本線「茅野駅」直結。新宿駅から特急あずさで約2時間。駅のブリッジから直接アプローチできます。
遠方から訪れる場合は、茅野駅周辺または諏訪湖エリアの宿泊が便利です。蓼科高原や八ヶ岳山麓へのアクセスも良好で、建築巡りと合わせた信州旅行のルートが組みやすい立地です。建築好きには、同じ沿線の塩尻駅から乗り換えて、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている「奈良井宿」へ向かうのもおすすめです。

 

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参考文献・関連情報

本記事は、以下の資料に基づいています。

- 『新建築』2005年11月号(新建築社)──茅野市民館の竣工時の詳細なレポートが掲載。NASCAの八木佐千子氏による空間構成の解説、倉田直道氏による市民参加プロセスの記述、伊東正示氏による開館準備の経緯が収録されています。

- 『がらんどう』(古谷誠章 著、王国社)──設計者自身が茅野市民館の構想から完成に至るまでの思考を記した著書。藤森照信との対談も収録されており、プロポーザルでの図書館の提案が評価された背景を辿ることができます。

- 茅野市民館 公式サイト──開館情報、催事スケジュール、アクセス方法など最新情報はこちらで確認できます。

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水戸芸術館|磯崎新が「都市広場」と「塔」で仕掛けた、地方都市再生の建築的実験

茨城県水戸──馬の背の台地に嵌め込まれた「街の核」

水戸芸術館 都市広場とシンボルタワー全景

水戸芸術館の都市広場とシンボルタワーの全景、芝生の広場越しにチタンパネルの塔が立ち上がる

茨城県水戸市。那珂川と千波湖に挟まれた東西に長い馬の背状の台地に旧市街が広がり、その尾根道沿いに街が発展してきました。「水戸芸術館」は、その旧市街のかつての商業中心地──表通りから1本裏に入った名門・水戸五軒小学校の跡地に建っています。設計は磯崎新(磯崎新アトリエ)、1990年竣工。

磯崎新といえば、ポストモダンの旗手として国際的に知られ、2019年にはプリツカー賞を受賞した建築家です。その磯崎が、水戸市制100周年の記念施設として構想したのは、単なる文化ホールの箱ではなく、都市構造そのものを変換する装置でした。

水戸の街は尾根道を軸に線的に発展してきたために、大通りから1本裏に入ると途端に街の裏側になってしまうという構造的な弱点を抱えていました。磯崎はこの線的な都市構造を「面的な都市構造」に変換させるきっかけとして、敷地の中心に「都市広場」を据え、高さ100mの「シンボルタワー」を立て、その周囲に劇場・コンサートホール・現代美術ギャラリーを配するという全体構成を採用しています。

イタリア・シエナのカンポ広場が市庁舎の塔をもった市民広場であるように、水戸芸術館もまた塔と広場をもつ「街の核」として設計された──磯崎自身がそう語っています。

水戸芸術館シンボルタワー チタンパネルの三重螺旋構造

シンボルタワーを下から仰ぐ、三重螺旋のチタンパネルが光を反射している

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都市広場とシンボルタワー──「親近性」「劇場性」「幻想性」の設計

1辺60mの正方形広場──都市の「大広間」

水戸芸術館の計画で最も根幹をなすのは、1辺約60mの正方形の都市広場です。この広場は敷地が接する四方の道路のいずれからもアプローチできるように設計されています。線的な都市構造を面的に展開するという都市計画的な意図が、このアクセスの設計に端的に表れています。

広場を取り巻く回廊の屋上やカスケード周りの彫刻庭園からは地上を見下ろすことができ、広場に集まる人々はここから見下ろされることになります。広場が舞台にも客席にもなる、磯崎が「劇場性」と呼んだ仕掛けです。

水戸芸術館 カスケード 稲田石のパンダ石を用いた滝

都市広場のカスケード、石壁の間に宙吊りにされた自然石に水が流れ落ちている

水戸芸術館 エントランス外観

芝生の広場越しにエントランスを見る

水戸芸術館 ACM劇場外観

ACM劇場外観

高さ100m、チタンの三重螺旋──無限に伸びていく塔

シンボルタワーは水戸市制100周年にちなんで高さ100m。元々は周辺商店街が京都タワーや千葉ポートタワーのような集客力のある「展望塔」を望んだことから計画に盛り込まれたものですが、磯崎はあえて展望機能よりもランドマークとしての機能を重視した設計を行いました。

構造は、500φのGコラムによる正四面体(一辺9.6m)を単位として28個積み重ね、突然中断するというコンセプトでつくられています。本来は無限に伸びていくはずの柱が、偶然あるところで終わってしまう──頂部をもたず、形は完結しない。正四面体を規則的に積み重ねると稜線は自動的に三重螺旋を描き、ねじれた構造が生まれます。

外壁パネルには厚さ1.5mmのチタンが採用されました。垂直な面がひとつもなくメンテナンス性が求められたことが選定理由のひとつですが、チタンという素材は光を微妙なしかたで反映する特性も持ち合わせています。56面の正三角形パネルが、水戸の空の下刻々と表情を変えていく光景が生まれています。

那珂川を挟んだ遠方からでもこの塔は視認でき、水戸の地形的条件がランドマークとしての立地に恵まれていたことも見逃せません。

水戸芸術館 遠く那珂川を挟んだ方向からもタワーが見える

那珂川越しの芸術館

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「文化複合施設」の構成原理──独立と接続の間

水戸芸術館 エントランスホール パイプオルガンと11mの吹抜け

エントランスホール内部、パイプオルガンが設置された高さ11mの吹抜け空間

水戸芸術館 エントランスホール内部

別角度からのエントランスホール

 

フレキシブルでも独立棟でもない──「回遊式構成」

水戸芸術館は劇場、コンサートホール、現代美術ギャラリーの3つの主要機能を複合させた施設ですが、その構成方法の議論が設計の核心にありました。

ポンピドゥー・センターのように各施設の境界を取り払ってフレキシブルにするのか、それとも各施設を完全に独立させて配置するのか。磯崎が選んだのはそのどちらでもない中間解──各分野が独自の活動を十分にできるよう独立した空間をもちながらも、共通のスペースでつながる構成です。

すべてがフレキシブルであれば各分野で完璧なパフォーマンスを行うことが困難になり、おのおのを完全に独立させてしまっては同居している意味がない。その整合をどこに置くかという判断が、全体の構成を決定づけています。

入場者の玄関にあたるのは共有の「エントランスホール」。パイプオルガンが設置された高さ11mの吹抜け空間で、オルガンの音響条件に合わせた残響の長い部屋として設計されています。日常的にはオルガンの演奏が来場者を迎え、プロムナード・コンサートが行われますが、ここを他と切り離して純粋なオルガン・コンサートを開くこともできるようになっています。

水戸芸術館 エントランスホールの柱

エントランスホール 列柱の構成

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各施設の空間──「胎内性」としてのデザイン

磯崎は各施設のデザインに「胎内性」という言葉を用いています。独立した空間として感知でき、そのなかに入ると包み込まれ落ち着ける雰囲気を生みだす──巨大な施設でありながら、内部は人間的なスケールで分節されています。

ACM劇場──グローブ座から翻案されたスラスト・ステージ

ACM劇場の基本構成は、シェークスピアのグローブ座から翻案されたスラスト・ステージです。コバルトを混ぜて焼成した青色煉瓦の内壁をもつシリンダーに、木造スケールの3階建てバルコニー席が入れ子にされています。

弧を描く桟敷席は12本の木柱(ムクの120φの鉄骨に木を練りつけたもの)で支えられ、3階席は舞台の後ろ側まで回り込む360度円弧の客席になっています。各階高は住宅スケールともいえる2.7mに抑えられ、どの席にいても俳優の細かい表情まで見極めることができる。

さらに、フライには能舞台フレームが常時収納されており、舞台昇降装置も「橋掛り」の角度に合わせた分割になっているため、短時間で能舞台の基本要素が出現できる仕掛けが施されています。西洋のスラスト・ステージと日本の能舞台、両方の典型を受け入れる劇場です。

館内見学ツアーで見学ができますが、私が訪問した際は利用日と重なり内部を見学することができませんでした。

コンサートホールATM──掌の上のアリーナ

コンサートホールATMは、広げた掌の真ん中にステージを置いたような平面形をした六角形のアリーナ式ホール。3本の大理石貼りの柱と、伝統的な正方形の部屋にドームを架ける際に用いられるアーチとペンデンティヴのセットが円形の天井を支えています。

3本の大柱のうち2本は正面席を3分するように配置され──つまり柱が客席の中に建っているのですが──聴衆をこじんまりとした単位に心理的にグルーピングし、居心地のよいスケールのなかに座らせる設計になっています。客席は補助席を含めて700席と小規模で、中編成以下のアンサンブルのためのホールとしてつくられました。

天井中央部の直径13mの可動音響反射盤は、舞台面から6.0mから8.4mの高さの間で設定でき、演奏の規模や楽器の違い、演奏者の好みに応じて初期反射音のディレイを調節します。

水戸芸術館 コンサートホールATMの内部

コンサートホール内部 客席の間に柱が落ちる

現代美術ギャラリー──光と空間のリズム

現代美術ギャラリーの第1室から第7室までは、大きさ、光の状態、縦横の比率がそれぞれ異なった部屋としてひと続きに設計されています。来館者はさまざまな雰囲気の部屋を順々に通過することで、空間のリズムが体のなかに刻み込まれます。

特筆すべきは自然光の積極的な導入です。望ましい光の分布が得られるようにガラスの積層材や開口の形状が検討され、一方で美術作品と干渉しないよう床・壁・天井のディテールは可能な限り消去されています。ピクチュアレールが存在せず、壁に作品を釘やビスでとめる仕様──アーティストは与えられた空間に自由にインスタレーションできるのです。

水戸芸術館 ギャラリーへの階段

エントランスホールからギャラリーへ至る階段

水戸芸術館 ギャラリーへ至る階段

ギャラリーへ至る階段 細く天井の高い空間にトップライトが落ちる

水戸芸術館 現代美術ギャラリー ホワイエ

現代美術ギャラリー ホワイエ

水戸芸術館 現代美術ギャラリー

現代美術ギャラリー

 

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現地で感じたこと──都市の調停と、あと5分の距離

水戸芸術館 タワー足元

タワーとその奥に広がる街並み

実際に水戸芸術館を歩くと、まず驚かされるのはこの建築が都市の中にどうあるべきかについての周到な配慮です。劇場、ホール、ギャラリーという大きな気積を必要とする施設を備えながら、ひとつの塊として巨大な建築が周辺の町並みからスケールアウトしないよう抑制されている。磯崎自身が「人間的なスケールで建物の形を分節し、それらのアンサンブルが生まれるように」と記した通りの実現です。各機能を分散させながらエントランスは集約し、中心に広場を設ける。高機能化する都市のお手本のような配置計画だと感じました。

建築のデザインは、とにかく見どころが豊富です。劇場、ホール、ギャラリー、エントランスと内部はそれぞれまったく異なるデザインがなされていながら、全体を統合する手腕に唸らされます。視線に近い下層部分には石やコンクリートが使われ、上を見上げると金属やガラスへと素材が変わっていく構成は──磯崎の言葉を借りれば「過去(土着)と未来(飛躍)がたとえ矛盾しながらでも共存している」表現であり──竣工から35年以上経ったいまもまったく色あせていません。

一方で、惜しむらくは立地でしょう。水戸駅からの距離があと徒歩5分短いだけでも、水戸市のあり方は大きく変わっていたのではないか。駅から散策して行くには少し距離があり、多くの人はバスを利用することになります。芸術館へ至る道が、歩いて楽しい都市空間になっているとは言い難い。建築家がどれほど精緻な都市計画的意図を建築に込めても、敷地の外側にまではその意図が及ばない──これは芸術館の限界というよりも、都市全体の課題です。

水戸芸術館 広場に面するポーチ

広場に面するポーチ

水戸芸術館 裏動線

都市の裏側へ続く動線

 

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1990年の問いと、2020年代の現実

伊東豊雄設計の水戸市民会館 内観

水戸芸術館と隣接する伊東豊雄設計の水戸市民会館

1990年の竣工時、すでに「都市の活性化」が課題として掲げられていたという事実は、現在の目から見ると示唆的です。水戸市の総人口は1990年以降も2015年頃までは増加の一途をたどりましたが、生産年齢人口という点では1990年時点ですでに下降局面に入っており、老年人口は右肩上がりの状況にありました。駅前や郊外の大規模店舗に集客力を奪われ、旧市街が地盤沈下していく──日本中の地方都市が直面した、そしていまも直面し続けている構造的問題です。

磯崎が「都市広場」と「シンボルタワー」のセットを水戸の街に嵌め込んだとき、その射程には「地盤沈下している地域を活性化し、周辺整備を促すきっかけ」としての都市計画的な意味合いがありました。しかし、1990年の時点で違う手の打ち方があったのではないかとは思わずにいられません。文化施設は都市を救えるのか──その問いは、35年の時を経てなお答えが出ていません。

近年、隣接する敷地に伊東豊雄設計の水戸市民会館が開館しました。学習のためのスペースが豊富にあり、ホールも備える施設です。磯崎新と伊東豊雄──日本建築史に残るふたりの建築家の作品が隣り合う街。両者が今後どのように共存し、ここから水戸の文化を担う若者が育ち、建築をフィールドとする才能が生まれていくのか。その行方を見届けたいと思います。

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見学情報とアクセス

正式名称|水戸芸術館
所在地|茨城県水戸市五軒町1-6-8
設計|磯崎新(磯崎新アトリエ)
竣工|1990年
主要施設|ACM劇場、コンサートホールATM、現代美術ギャラリー、エントランスホール、シンボルタワー
開館時間・休館日|公式サイトで要確認

アクセス

JR常磐線「水戸駅」北口よりバスで約10分。または水戸駅北口より徒歩約20分。

 

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参考文献・関連情報

本記事は、以下の資料に基づいています。

『新建築』1990年7月号(新建築社)──水戸芸術館の竣工時の詳細なレポートが掲載。磯崎新による設計理念の解説、設計を担当した青木淳による各施設の設計経緯の記述が収録されています。都市広場やシンボルタワーの構想背景から、ACM劇場・コンサートホールATM・現代美術ギャラリーの空間構成に至るまで、設計者の思考を辿ることができます。

水戸芸術館公式サイト──開館情報、企画展・公演スケジュール、アクセス方法など、訪問に必要な最新情報はこちらで確認できます。

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MIHO MUSEUM|I.M.ペイが信楽の山中に描いた「桃源郷」への建築的アプローチ

滋賀県信楽──六古窯の山並みに埋もれた美術館

MIHO MUSEUM エントランス棟の外観とガラス屋根構造

MIHO MUSEUMエントランス棟外観、山並みを背景にしたガラス屋根の全景

滋賀県甲賀市信楽町。六古窯のひとつとして知られる陶芸の里の、谷と尾根が連続する山地の中に、MIHO MUSEUMは建っています。設計はI.M.ペイ(Pei Cobb Freed & Partners)、1997年開館。

I.M.ペイといえば、パリ・ルーブル美術館のガラスのピラミッドに代表される、幾何学と光の制御を設計言語とした建築家です。そのペイが、日本の山中に構想したのは「桃源郷(Shangri-la)」──自然に埋もれた非現実の空間を、建築として有形化するという壮大な試みでした。

35万坪の敷地の中から最もふさわしい場所を探すため、ペイは1990年の春から施主とともに山の中を歩きまわり、構想から竣工まで実に6年の歳月を費やしています。自然公園法第三種特別地域内という制約のもと、建物の最高高さは13mに制限され、建物の大部分は地中に埋め戻されました。しかしこの高さ制限が、結果として自然との馴染みのよさを創出したように思えます。地表に現れるボリュームはエントランス等の最小限の構成とガラス・スチールの屋根構造に限られています。それによって、来館者は小ぶりなエントランスを抜けた先に思いも寄らない広大な空間が広がっていることに驚くことになります。

この美術館を訪れるべき理由は明快です。建築が展示品を「納める箱」であることを超えて、到達するまでの旅路と空間体験そのものが作品として設計された類まれなデザインが、宗教団体を母体とする豊饒な資本力によって実現されているのです。

MIHO MUSEUM レセプション棟から美術館棟へ向かう歩行者用トンネル入口]

レセプション棟からトンネルへ続くアプローチの入口

レセプション棟から美術館棟まで──500mの「桃源郷」体験

MIHO MUSEUMの計画において最も特筆すべきは、来館者動線の設計です。施設はレセプション棟と美術館棟の2棟で構成され、来館者はまずレセプション棟で入館料を支払います。ここから美術館棟まで約500m。レセプション棟の位置からは美術館棟はまったく見えない位置関係になっています。

美術館棟へ至る動線は単なる移動ではありません。大きく湾曲する歩行者用トンネルを歩き、谷を跨ぐ吊橋を渡り、本館エントランスホールへと至る──アクセスプロセスそのものが施設計画の一部として組み込まれています。

MIHO MUSEUM 歩行者用トンネル内部から出口方向を望む

トンネル内部、湾曲するコンクリートの壁面と先に見える光

実際にこのトンネルを歩くと、先の見えないカーブの連続に導かれるまま進んでいく体験が、ペイの思い描いた桃源郷の寓意と重なります。トンネルの終点付近、最後のカーブを抜けて視界が開けた瞬間、エントランスの建物が眼前に現れる。この演出の裏に、そのような配置計画を可能にする土地をクライアントとともに探したペイの執念が感じられます。

MIHO MUSEUM 歩行者用トンネル出口の先に見える、エントランス棟

トンネルのカーブを抜けると、ブリッジの向こうに建物が見える

最寄り駅からの旅路も含めたデザイン

さらに言えば、このアプローチ体験はレセプション棟に到着する以前から始まっています。最寄り駅から延々とバスに揺られ、信楽の山並みの奥へ奥へと分け入っていく時間そのものが、遥か遠くの桃源郷を目指す旅路として機能しています。都市からの距離、交通の不便さは通常であれば施設にとって不利に働きますが、MIHO MUSEUMにおいてはそれすらも体験設計の一部として反転させているものと見ることができるでしょう。

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幾何学の屋根と素材の調停──洋と和の間に

MIHO MUSEUM エントランスホール内観 ガラス屋根とライムストーン仕上げ

エントランスホール内部、三角形のガラス屋根から差し込む光とライムストーンの壁面

ガラスとスチールの家形屋根

美術館棟に架かる屋根は、三角形を基調としたガラスとスチールの空間フレームを採用しています。その形状は日本の入母屋、あるいは中国の伝統的な屋根形状を想起させるものですが、素材は鉄骨フレームとガラス板という近代的なものに転換されています。伝統的な形態を現代の技術と素材で再解釈する──ポストモダニズムの手法がここに読み取れます。
トップライトや庇形状によって直射日光は精緻にコントロールされ、展示室やホワイエには拡散光が確保されています。

MIHO MUSEUM 南ウイングロビー内観

南ウイングロビー内観

MIHO MUSEUM 南ウイングロビー内観

南ウイングロビー地階

ライムストーンとオリエントの素材構成

人の目に触れる共用部の仕上げには、フランス産のライムストーン(石灰岩)が用いられています。パリのルーブル美術館でも使用されたマニドリと呼ばれる石材です。

ここで注目すべきは、使用されている建材が日本のものではなく、オリエント世界に馴染みのある素材で構成されている点です。周囲は信楽の山並みに囲まれ、北ウィングの石庭には鳥取県佐治川産の佐治石が据えられるなど、外部は日本的な風景の中にあります。その内部にフランス産の石灰岩が用いられている構成は、一見すると不釣り合いに映りますが、南ウィングに展示されるエジプト、中近東、ギリシャ・ローマ、インド、中国の美術品と、日本というこの土地のあいだを調停する装置として機能しています。

MIHO MUSEUM 北ウイングロビー内観

北ウイングロビー内観

MIHO MUSEUM 南ウイング中庭

南ウイング中庭。建物が地中に埋まっている様子がわかる

MIHO MUSEUM 内観

建築と景観が一体化している

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事業の背景──信仰と文化事業が生んだ建築

MIHO MUSEUMの運営母体はShumei Culture Foundation。創設者は小山美秀子で、宗教法人・神慈秀明会(Shinji Shumeikai)の設立者でもあります。美・自然・農法を重視する同会の思想と連関した文化事業として美術館構想が進められました。

資金面では、創設者個人の資産と関連財団の拠出により建設・運営が可能となっています。地形に配慮した大規模な地中化、全長500mに及ぶアプローチ動線、ガラス屋根の特殊仕様──通常の公共美術館では実現が困難な計画が、この資金背景によって成立しています。

設計共同体はアメリカと日本の設計者で構成され、レセプション棟の地下には自家発電機室が配置されるなど、美術品保護のための安全計画も入念です。発電機用の発火性燃料を美術館棟から離して設置し、煙突などの工作物を安全性の高い場所に設ける──こうした裏側の計画にも、一切の妥協がありません。

美術館の眼下には同じ施主が持つふたつの大きな宗教施設があり、計画に与えられた環境そのものが、通常の美術館プロジェクトとは異なる性質を帯びています。個人の信仰と美意識が、世界的な建築家の構想力と結びついたとき、何が生まれるか──MIHO MUSEUMはその問いに対するひとつの回答です。

石山駅からのバス移動も含めて、最低でも半日がかりとなる建築見学ですが、間違いなく訪れて損はない建築です。石山駅からほど近い、石山寺には国宝の多宝塔があり、こちらも必見の建築となっているので合わせて訪れるのがおすすめです。

国宝:石山寺多宝塔

国宝:石山寺多宝塔

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基本情報とアクセス

基本情報

所在地|滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300
設計|I.M.ペイ(Pei Cobb Freed & Partners)
竣工|1997年

アクセス

公共交通機関の場合:
JR琵琶湖線「石山駅」よりバスで約50分。帝産湖南交通「MIHO MUSEUM行き」バスが運行しています(本数が限られるため、時刻表の事前確認を推奨)。

自家用車の場合:
新名神高速道路「信楽IC」より約15分。無料駐車場完備。

 

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参考文献・関連情報

本記事は、以下の資料に基づいています。

『新建築』1997年1月号(新建築社)──MIHO MUSEUMの竣工時の詳細なレポートが掲載。佐藤修(紀萌館設計室)による設計解説が収録されており、設計共同体の構成やアプローチ計画の意図、南北ウィングの展示計画の背景を知ることができます。

MIHO MUSEUM公式サイト──開館スケジュール、企画展情報、アクセス方法など、訪問に必要な最新情報はこちらで確認できます。

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山形「コパル」探訪記。o+hが設計した日本建築学会賞受賞のインクルーシブな建築とは?

障がいのある子もそうでない子も、すべての子どもに開かれた遊び場としての建築です。
山形市が指定管理者に運営・管理を発注する、Park-PFI方式で設立され、大人たちに見守られながら日々たくさんの子どもたちが自由に遊びまわる空間となりました。

設計は大西麻貴さん、百田有希さんによる建築家ユニット、o+hが担い、体育館と遊技場という2つの大きな区画に、ゆるやかな起伏をもった大きな屋根が架かる構成となっています。
車椅子の子でも遊べるよう、体育館と遊技場は幅の広いスロープでつながれており、それ自体子どもたちが駆けっこをして遊べる場所として設計されています。
子どもたちが自ら遊び方を発見していけるように、という考えから、既製遊具は置かずにトンネルや取っ手の付いた坂道を用意するなど、建物そのものに遊びの切っ掛けを仕込むようなデザインがなされています。
そのため床や壁といった建物を構成する要素全体が複雑な三次元曲面の重なり合いによってつくられた丘のようになっており、その上にさらに三次元曲面でつくられた屋根が架かるという、非常に複雑な建築形態を成しています。
その中を歩くだけでもほかでは感じることのない身体的な刺激があり、子どもだけでなく大人にとっても楽しい建築です。
建物の背景には蔵王連峰を抱え、野山で駆け回るような遊びの時間を過ごすことのできる、こんな建築が日本にあったのかと思わされる建築でした。

山形駅からバスまたは電車での移動が必要で、本数も少ないですが、タクシーでも3,000円程度で行けるので時間帯によってはタクシー利用も良いでしょう。
入場には所定の料金が必要です。
基本的には大人のみでの施設利用は許可されていませんが、見学目的であればいくつかコースが設定されており、ガイダンス付きのメニューも用意されているので施設HPをご確認ください。

 

体育館。卓球台やテントなど、最低限の遊具が並べられゆずり合って使う

体育館から遊戯場へ至るスロープ

遊技場。駆け上ったり駆け下りたりできる斜面の下はクッション性のある床となっている

遊技場、ネットが張られた床。建築の一部が遊具化している



小さなトンネルなど、子どもたちだけが出入りできるスペースも随所に設置されていた

シェルターインクルーシブプレイス コパル(山形市南部児童遊戯施設)

主要用途 児童福祉施設等
設計 大西麻貴+百田有希/o+h
建主 山形市
   アドバイザー パシフィックコンサルタンツ
   PFI事業者 夢の公園
所在地 山形県山形市大字片谷地580-1

見学情報

JR蔵王駅から徒歩15分
営業時間など詳細は施設のWEBサイトをご参照ください。

 

長野出張の寄り道に。善光寺隣接の「東山魁夷館」で体験する、谷口吉生建築の極致。

善光寺の町に建つ、現代建築の粋を集めた小さな美術館

長野県長野市。1400年来もの歴史をもつ善光寺の町に、現代建築の粋が結集された小さな美術館が建っています。
日本画家、東山魁夷の作品を収蔵展示する、長野県立美術館東山魁夷館は、建築家・谷口吉生の設計により1989年に竣工しました。

谷口吉生は生涯を通じて数多くの美術館や博物館の設計を手掛けました。中でも山形県酒田市の土門拳記念館や、石川県金沢市の鈴木大拙館、香川県丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館など、一人の作家を紹介するために建てられた建築は設計のポイントがわかりやすいためか、大学の授業でも頻出していた印象があります。

写真では伝わらない──ミニイクことで初めてわかる谷口建築の魅力

ただ、私個人としては写真で見るだけだとシンプルなデザインがあまり印象に残らず、凄さがわからないまま社会人になってしまいました。
それでも実際の建築を訪れ、身を置いてみると、無駄な要素がそぎ落とされた洗練された空間に吸い込まれるような体験に惹き込まれ、以来谷口吉生の建築がある地域へ訪問する機会があれば、必ず寄るようにしています。
まさにミニイクことで初めてその魅力がわかった建築家でした。

東山魁夷館は善光寺のすぐ近く、かつての城跡が公園になったエリアに建っています。
旧信濃美術館(現在は建て替えられ長野県立美術館)の別館として建てられました。
東山魁夷が学生時代に信濃の自然に触れて以来、作品のテーマとして繰り返し描いてきたこの地に作品を寄贈することとなり、収蔵展示するための場所として設計されました。

50m角の正方形プランと水盤──日本画のための静謐な空間設計

谷口は50m角の正方形を設け、水盤を囲むようなプランを考案します。
外界と隔たれた独立した自然を生み出しつつ、日本画を展示するに相応しい簡潔で静謐な空間を志向しました。

谷口の建築はよく日本的と称され、学生時代にはあまりピンと来なかったのですが、プロポーションの設定や水池を回り込むような雁行する通路を辿って展示室へと至るアプローチなど、実際に歩いてみるとなるほど日本らしさを感じる建築です。
設計の実務に従事している方であれば、素材の選び方や納まりなど、目を見張るディテールもたくさんあるのでしょうね。

1階平面図。図面右下が正面エントランス。

池越しに展示室(左)を見る

正面エントランス

1階ロビー。展示室は階段を上がって2階、突き当りの特別展示室から1階へ下りる

階段上からロビーを見返す

展示室へ至る通路。右手に視聴覚室

見学を終え、1階のラウンジへ下りる

ラウンジから池を見たところ。水平に切り取られた自然が作品と呼応する

1階通路振り返り

ロビーから中庭を見る

本館へ続く通路

本館側から見た魁夷館

庇のディテール

中庭から入口に入るステップ

水盤に反射した光が壁面を照らす

正式名称|長野県信濃美術館 東山魁夷館
所在地|長野県長野市箱清水1-4-4
主要用途|美術館
設計|谷ロ建築設計研究所
建主|長野県

アクセス

JR長野駅からバスで15分
営業時間など詳細は東山魁夷館のWEBサイトをご参照ください。

 

 

ニセコ観光の新定番。ICOR NISEKO|長谷川豪が描く「森と建築」の境界線。 北海道

柱と屋根だけの架構が生む「建築の原初」──居場所の発生

北海道、ニセコ町に建つカフェ併用住宅です。

設計は長谷川豪建築設計事務所。ニセコ町はさすがに遠いかな……と思っていましたが、建築は素晴らしく、ぜひ多くの人に訪れてみてほしい建築でした。
敷地は崖に接する少し開けた土地にあり、整地された広場と崖の稜線に沿って、S字状にカーブを描いて建てられています。
細長い建物の南半分がカフェとギャラリーとして一般客が入れるスペースとなっており、カフェスペースは屋根だけが架かった半屋外の空間。
ここに座ってホットドッグを食べながら、崖下の川のせせらぎを眺める、そんなささやかな時間の過ごし方が提供されています。

なにもなければ、どこにでもありそうな何の変哲もない、ちょっとした空き地と崖という感じなのですが、柱と屋根だけの簡素な架構が置かれただけで、人の居場所が生まれ、そこから活動が展開していくという建築の原初のような美しさがありました。
建物の北側には寝室など住居専用スペースがあり、時間帯によってカフェやギャラリーも含めた全体が住宅として使えるように計画されています。

正面外観。自然の木々の間に水平のラインがすっと伸びる

ギャラリースペース。片流れの屋根に反射した光が室内を照らす

カフェスペース。三和土の床と、屋根だけがある空間

下方からは羊蹄山の雪解け水が流れ出した川のせせらぎが聞こえる

崖下からの見上げ

建物手前側にはハーブや野菜が植えられ、カフェで販売されている

断面図。右側の少し上がったところがギャラリー(住宅特集2022年1月号を元に作成)

配置図と断面図。崖の高さは約5m(住宅特集2022年1月号を元に作成)

ICOR NISEKO

主要用途 店舗併用住宅

設計 長谷川豪建築設計事務所

建主 個人

所在地 北海道虻田郡ニセコ町

見学情報

JRニセコ駅またはJR比羅夫駅からバス+徒歩で20分ほど。
営業時間など詳細はICOR NISEKO | ICORをご確認ください。
羊蹄山の麓にはアウトドア客向けの宿泊施設もあり、便利です。

 

 

【岡山県】特別史跡・旧閑谷学校──350年残り続けた「日本最古の庶民教育施設」の建築と石塀を歩く

岡山県備前市に残る特別史跡・旧閑谷学校は、江戸時代初期に岡山藩主・池田光政が建設させた日本最古級の庶民教育施設です。津田永忠が30年以上かけて完成させた講堂や石塀が350年経った現在もほぼそのまま残り、地理・経済・設計の3つの要因がその長寿命を支えています。

旧閑谷学校とは──江戸時代の庶民教育を担った郷学校

特別史跡 旧閑谷学校は、江戸時代初期、岡山藩藩主の池田光政が建設させた郷学校です。

江戸時代の教育機関としては主に3つあげられます。

・藩学校:藩士の教育が目的。藩が中心都市に設立。

・郷学校:庶民の教育が目的。藩が地方都市に設立。

・寺子屋:庶民の教育が目的。寺院が設立。

郷学校は藩学校と寺子屋の間のような位置づけです。

 

郷学校は徳川幕府が各藩に設立を促す号令を受けて建設されたもので、1675年に設けられた閑谷学校は全国的にも最初期のもの。建物を含め敷地がほぼそのまま残されているものは全国にここしかありません。

講堂をはじめとする敷地内の建物やランドスケープの美しさもさることながら、敷地をぐるりと取り囲むなまこ型断面の特徴的な石塀がここにしかない景観を生み出し、多くの建築関係者を惹きつけてきました。

350年残った3つの要因──地理・経済・設計の因数分解

災害や空襲、開発により古い建物が失われてきた日本では、江戸時代の建造物が残っているというだけで貴重ですが、閑谷学校には失われなかったそれなりの理由があります。

 

1つは地理的要因。

池田光政は郷学校の設立に先駆け、藩内各地を巡視しています。周囲を山に囲まれた閑谷の地を見て、この静けさが教育の場としてふさわしいだろうと郷学校の建設を命じます。選ばれた敷地は都心から遠く離れ、世俗の事情とは切り離されることになります。

また地形的にも谷池でありながら河川より少し高さのある微高地に位置し、水害からも免れました。さらに、日常生活や通常の学習を行う場所とこの講堂との間に、自然の起伏をそのまま残し火除山とすることで、火災による消失も被らないよう計画されています。

 

2つ目、経済的要因。

ここが光政の勘所でしょう。閑谷学校設立にあたり、光政は学校に石高を与えて経済的に自立できるようにと差配しました。作人63戸を学校領に移住させ、領内で食糧を賄えるようにしています。学校経営を目的に据えた組織として独立させ、予算削減のために学校を閉鎖せざるを得ないといったことのないように体制を整えたのです。

実情としてそれがどのように機能したかはさておき、明治以降も私塾や私立県立の中学校、高校と教育施設として使われ、国の特別史跡として指定された現在でも論語の講義が開かれるなど、教育の場であり続けています。

 

3つ目は設計。

閑谷学校の建設を請け負ったのは、岡山藩の土木事業などに携わっていた津田永忠。

なんと30年以上もの年月をかけて完成させています。

1667年に仮設の手習所を建てると、教育施設としての運用は開始しつつ造営に着手。瓦焼き職人を領内に移住させるなど万全の体制を敷き、敷地西側に食堂や学房、習字所など日々の生活のための施設を、1673年には講堂を完成させています。

講堂に使用されている備前瓦は硬く長期の使用に耐えるものとされていますが、一方で製造工程での品質管理が難しいそうです。規模を考えると輸送コストの削減よりも、職人を側に置くことによる品質向上を期待したのかもしれません。

その後も敷地をぐるりと取り囲む石塀の建設を続け、こちらは1701年頃の完成とされています。幅およそ1.86m、高さ2.12mほどの塀が総延長765メートルにもわたって張り巡らされている様子は圧巻です。

孔子廟が設置されており、儒学の教場としてつくられたことから、建築の意匠や石塀のつくりも中国風の要素が取り入れられています。

実際に歩いて感じる「時間をかけてつくること」の豊かさ

実際に敷地内を歩くと、長い時間をかけてひとつの施設をつくり上げていくことによって生まれる豊かさを強く感じることができます。

石塀に使用されている石は丁寧にかたちを整えて貼り合わされており、そこに投じられた手間を想像するだけでも途方もない建造物であることが伝わってきます。また瓦も長い時間をかけてつくられたそうです。厳しい品質管理により、350年もの間、一度も葺き替えることなく使用し続けることができたのでしょう。

当然ながら、木材も現代では手に入らないような、長い時間をかけて育った樹木を製材して使用されています。乾燥にもしっかり時間を取っていると思われます。それによって部材の劣化を抑えることができ、長期にわたって使用し続けられている面もあるでしょう。建物が完成してからの年月が長いほど、歴史的には貴重であり重宝される傾向にありますが、建物が完成するまでの年月も指標に加えてみると面白いかもしれません。

現代の建築は1年でつくって25年後に大規模修繕、50年で壊す、といったライフサイクルが当たり前になっています。多くの事業者にとって、100年後、200年後を想定して建築をつくることは合理的ではないのでしょう。50年使える建築を建て、20~30年後に売却できればそれもありか、といったタイムスパンでは、計画できることが限られてくるのは当然です。池田光政は岡山藩、ひいては池田家が永続することを願って閑谷学校を造営し、結果として350年経ったいまでも国の貴重な財産として保護されています。

企業、自治体、国家、いずれも数百年後を見据え数十年かけてなにか1つのプロジェクトに取り組む合理性は失われていると思います。数百年使われ続ける建築は、今後どのようなかたちであり得るのか、またはあり得ないのか。そんなことを考えさせられる名建築です。

 

遠景。手前に広大な前庭がある。

泮池(はんち)。石橋を渡った先が修行界、手前が俗界。

泮池越しに講堂を見る。

校門正面。奥に見えるのは池田光政を祀る閑谷神社。

石塀と漆喰塀。

 

特別史跡 旧閑谷学校|1701年頃

主要用途 史跡(教育複合施設)

設計 津田永忠

建主 岡山藩(藩主:池田光政)

所在地 岡山県備前市閑谷784

アクセス

**公共交通機関の場合:**
JR山陽本線「吉永駅」よりタクシーまたはバス。

**自家用車の場合:**
山陽自動車道「備前IC」または「和気IC」より。

 

遠方から訪れる場合は、JR岡山駅周辺の宿泊が便利です。備前焼の里・伊部や、日本三名園のひとつ後楽園など、岡山の文化資源と合わせた建築巡りのルートも組みやすい立地です。